陸上自衛隊朝霞駐屯地の片隅に、とある石碑が佇んでいます。
その石碑は過去の凄惨な事件の犠牲となった隊員の功績を称え、魂を鎮める為のものです。
今回はその石碑が建立される要因となった「朝霞事件」についてお話しします。
朝霞事件概要
昭和46年8月21日、自衛隊の武器強奪を画策した「赤衛軍」を名乗る共産党系のグループ2名が朝霞駐屯地に侵入し、警衛勤務中の自衛官を殺害する事件が有りました。(通称:朝霞事件、赤衛軍事件)
なお、被害者となった自衛官の我が身を顧みない勇敢な行動により、携行していた武器及び装備品等は死守されています。
朝霞事件関係者
被害者
一場 哲雄(享年21才)
昭和44年3月入隊、昭和46年8月21日殉職
事件後、陸士長→2等陸曹へ特別昇任
第二級防衛功労賞及び勲七等青色桐葉章を授与された。
赤衛軍
実行犯
S田(19才 日本大学2年生)
【懲役12年】
新井(21才 駒沢大学1年生)(元陸上自衛官)
昭和45年入隊、昭和46年3月除隊
【懲役14年】
犯行計画・指揮
菊井 良治
【懲役15年】
黒幕
竹本 信弘(滝田 修) 強盗致死・幇助
【懲役5年】
マスコミ関係者(wikiより)
川本三郎(27歳)
『朝日ジャーナル』記者 証拠隠滅で逮捕
1971年2月から犯人と親交を結び、犯人に金を渡すなどの便宜を図り、その見返りにスクープ報道の材料となる情報の提供を受けていた。川本はさらに犯人から犯行の唯一の物証である「警衛腕章」を受け取り、同僚記者の妻にこれを託し、1971年9月上旬に朝日新聞社高井戸寮の焼却炉で灰にさせていた。
氏名不詳(26歳)
『週刊プレイボーイ』の記者 犯人蔵匿及び証拠隠滅で逮捕
犯人への取材に際して「警察の逮捕は近い」と教えるとともに逃走資金1万円を渡していた。
朝霞事件の目的
自衛隊から武器弾薬を奪い、武力革命による国家の転覆
朝霞事件当日の細部状況
赤衛軍は8月9日に一度駐屯地に侵入し、幹部自衛官の制服・制帽を窃取しており、それらを着用した上で武器として短刀を用意し、レンタカーのナンバープレートを前側のみ盗難したものに変更して8月21日の犯行に及んでいます。
20:20頃
幹部自衛官の制服を着用していれば身分証明書の提示をしなくとも入門可能な警備の甘さを突き、朝霞門から侵入。
そのまま駐屯地を縦断した先にある売店の南側へ駐車し、公衆電話で同志に「侵入成功」を報告後、駐屯内に潜伏。
20:30
一場士長 歩哨(駐屯地内の巡回)上番
20:40
一場士長 定時報告(異常なし)
20:45頃(事件発生)
東側外柵付近で一場士長と赤衛軍が遭遇。
警衛司令に報告するために送話器を手にしたが、報告する暇も無く赤衛軍2名と格闘戦に発展。
一場士長は果敢に立ち向かい赤衛軍2名を撃退するも酷く負傷してしまい、警衛司令に報告するために警衛所方向へ100mほど前進した所で力尽きた。
一場士長の負傷
後頭部…12カ所の挫傷
右胸部…肺を貫通する刺創2カ所
右手…5カ所の切創
左手…骨まで損傷する切創
事件直後から逃走まで
両名は一場士長から警衛の腕章を奪い、売名の為に赤衛軍のヘルメットとビラを現場に残し逃走、血で汚れた手を洗車場で洗い、車両で朝霞門へ前進した。
S田は血の付いた上衣を脱ぎ丸首シャツで運転しかなりのスピードで警衛所を通過したものの、川越街道の信号は赤でありやむなく停車。
歩哨二人が追ってきて「警衛所では一時停止をしてください。それに、下着での外出は禁止されています。」と注意を受け、敬礼して去っていった。(この時、新井は「俺は31連隊の幹部だ」と答えている)
21:10
2回目の定時報告なし
21:40
3回目の定時報告なし
22:00
一場士長の死亡推定時刻
警衛司令は次の歩哨を派遣
22:10
4回目の定時報告なし
22:15
追加で1名派遣、一場士長の捜索開始
23:30
追加で4名を派遣
00:00
追加で7名を派遣、合計13名による捜索
00:30
倒れている一場士長を発見
事件後の概要
事件後からマスコミは大々的に取り上げていたものの、赤衛軍はわずか4名という非常に小規模かつ初犯であったため捜査は難航した。
10月5日発売「朝日ジャーナル」のインタビュー記事に事件の非開示情報が載っていたため、インタビュー先をクロと断定し捜査を進め、11月16日と25日に逮捕された。
事件を振り返って
今の自衛隊の常識からするとありえないくらい杜撰ですね。
幹部の制服を着ていればフリーパスな事もそうですが、定時報告がないまま1時間以上放置している事もあり得ないです。
ハッキリ言わせてもらいますが、この日の警衛司令にも責任はあります。
もし発見が早ければ一場士長の命を救う事が出来たかもしれません。
石碑の傍にはこのような説明書きが残されています。
隊員が命を懸けて責務を果たした美談として書かれていますが、自衛隊の杜撰さが将来有望な一人の青年の命を奪ってしまった事件としても後世に語り継ぐべきです。
私が知る限りでは自衛官が敵対勢力に殺されたのはこの事件のみです。
この事件は自衛隊内でも風化しつつあるので、自衛官が外国の敵ではなく国内の過激派組織に殺された事件を少しでも多くの人に知ってもらいたいと思いこの記事を書きました。